くりみがおか ゆうのブログ

女装子としての自分を表現する

物言えば唇寒し

今の世は 一言言って バンされる


なんか最近、世の中の人達が、誰かの失言とか問題発言とか差別的な発言とかを、握り拳を構えて待っている様に感じる。


オリ・パラの開閉幕式の総括責任者が差別的な発言をしたとかでその職を辞した。


それを聞いて、疑問に思う所がある。
基本的にNHKのニュースしか耳にしないので詳細を知らないけど、ある女性タレントに対して差別的な演出をしようとしたとか。
なんでも、女性タレントにブタの格好をさせようとしたとか聞いたけど。


ところで、その女性タレントは差別的な発言だと感じたのだろうか。
その女性タレントは「ブタ役」を侮辱と感じたのだろうか。


もしも、それだとしたら、本人が直接抗議をすべき話なんじゃないかな。
本人が抗議しているなら理解出来る。
でもなぜか、先に周りが騒いで辞任に追い込んだ。


それと、報道にしても、そんなに差別的な発言だと言うなら、何でわざわざ「女性タレント」と言うのだろうか。
ただ「タレント」という言い方では駄目なのだろうか。
女性タレントにブタと言うと侮辱的、差別的な発言だとなるけど、男性タレントだと侮辱的、差別的な発言だとならないとでも言うのだろうか。
例えば、ブタでなくて他の動物だとしたら、侮辱的、差別的な発言だとならないのだろうか。
例えば、その女性タレントをフォローしているつもりがもしかしたら逆にマスゴミとか周りの批判した人達が傷つけているかもとはならないのだろうか。


物言えば唇寒し秋の風
という句がある。
松尾芭蕉の句らしい。
その頃から、余計な事を言うなと戒めたのだろうか。


でも今は、余計な事でなくても、「一文字で唇寒し街の風」なっているようにすら感じる。
何しろ、差別的なとか侮辱的なとかいう発言をした人を、問答無用、完膚なきまでに叩こうという空気になる。
それが怖く感じる。


こんな事ばかり繰り返していると、そのうち表現の自由の範囲を狭めてしまうのではないか。
もう、何も会話をしない方がいいのではないかと感じる。


何となく、お互いが相手の胸ぐらを掴み握り拳を振りかざして会話をしようとしている、という風に感じる。


何とも恐ろしい時代になったものだ。